いまさらながら「いじめ」について

umitanuki2006-11-13

家にテレビがないせいか、一般常識に疎くなってる。一般常識というか、若い人からおじさんまで知っている最近のニュースだ。Webはよく見ているので「いじめ」がなんとなく話題でテレビでも取り上げられていて大臣がなんか言ったり都知事がすごいこと言ったりしているらしいが、テレビを見ないと何だが自分が外国にいるような気持ちになるものですね。ボリビアの山奥のネットカフェで「いじめ」についてのニュースサイトやブログを読んでいるのと、大して変わりがないのは不思議なことですが、この方が健全な気がします。

いじめ2.0=再帰的切断とWeb2.0=再帰的接続 - アンカテというエントリーを読んでいて、今のいじめは昔のいじめと違うのだとか。自分は毎日会社にいるのでリアルタイムないじめに遭遇しておらず、結果今のいじめの実態についてはよくわからないのですが、「世界との切断」という言葉を見てちょっと思うところがありました。

自分の指が切断されたとき、確かに自分自身が世界から「切断」された気がしました。4本指は「普通の人間ではない」と、身近な人が言いました。「普通の人間」ではないなら、今までは「普通の人間」のつもりだったわけですから、今までの世界から切断されたのだと思います。世界から切断され、友人や知人との関係性が自分の中で崩壊すると、それはアイデンティティの喪失につながります。まあ今ではこれがアイデンティティですけど。

「いじめ」にしても、「普通」にしても、英語に訳すのがとても難しい単語です。要するに、とても日本的です。いじめる方が悪いとかいじめられる方が悪いとかいろいろな言及が各所でありますが、そんなことよりも日本が日本的でなくなってきたのにそれに対応できないところにひずみが生まれてきたような気がします。右肩上がりで国民総中流社会だったころは、みんな普通であり普通でない子をいじめて普通に同化させようという社会のコンセンサスがあったような気がします。普通という感覚がある大人は今の子供の素直な感性に従った行動に対してヒステリックになったり、普通という感覚を押し付けようとしている大人を見て子供は違和感を感じているのではないでしょうか。

ちょうど子供から大人になる間に日本の外で多くの時間を過ごし、この間に日本的なものが音を立てて崩れていきました。なので、日本的な感覚を残しつつそうでない世界を知っています。インドを歩いていると、普通な人を見つけることができません。スーツを着たビジネスマンは、足のないルンペンと同じぐらい普通ではないです。そういう世の中では、たとえばいじめという感覚はよくわからないと思います。

Life is beautiful: 「『いじめられっ子』にならないためにしてきたこと体験談」大募集の中島さんの感覚もよくわかります。それに反対する人たちは極めて日本的なコメントを寄せていますが、その感覚もよくわかります。ただ、日本的な立場の人たちは対立しているという感覚が欠如していて、それが学校というところにも蔓延しているという気がします。おそらく対立も危機感もプライオリティもない日本のマジョリティは、それでも優秀に経済を発展させていく気がします。そしてどんどん極東のエスニックな国ができあがっていくのでしょう。

と、偉そうなことを書いてみましたが、現場をまったく知らないのでただの憶測です。別に真実はどうでもよくて(真実はどろどろしすぎていて知りたいとも思わない)、今の自分から見た感覚を書いてみただけですが、世界は切断の連続で断絶的に対立しているということがはっきりしました。それを知っているひとはいじめ問題など端から興味がないし、知らない人たちだけでは堂々巡りです。それでも太陽は明日も東から昇るのです。