秋葉原事件の2つの側面

秋葉原事件に思ったこと。

あの事件には、2つの側面があったということ。その2つの側面というのは、お互いにとても似ていて、あの事件にとてつもないリアリティを与える要因になっていると思う。これまでもたくさんの残虐な事件が発生しているが、あの事件はこれまでのどの事件よりも身近に思える。少なくとも自分はそうだ。

その側面の1つは、「被害者になっていたかもしれない」ということ。日曜日の秋葉原といえば、暇ならちょっと出かけてみようかなという場所の一つだ。秋葉原は平和でカオスなので、たまに遊びに行くのはとっても楽しい。だから、当日の午後に何気なく会社に来てネットで事件のことを知ったとき、恐ろしいと思った。ちょっと朝の気分が違えば、ちょうど昼ごろ秋葉原に寄ってから会社にきていたかもしれないから。ネット住人が集まるTwitterはてなでは、同じようにして不安を訴える人がたくさんいた。

もう1つの側面は、「犯人になっていたかもしれない」ということ。多くのマスメディアでは「理解不能」や「異常値」として扱われている犯人だが、ネット界隈では「意外とフツーのやつだったのか」という結論に達しつつある。今でこそ何とか職を得ている自分だって、学生のとき金がなくてバイトの面接に行く交通費すら出ない、という状況もあった。そこで友達も彼女もいない、部屋に転がって携帯で怒りをネットにぶちまけていれば、ナイフを持って思い切ったことをしたいと思うのもよくわかる。別に小さいころから動物を猟奇的にいじめるのが好きだったとかそういうことはなくて、普通に小中学校に通いそこそこ部活で運動をしたりしながらだんだん自分がこの世の中に適合できていないことを思い知らされてきて、周囲の人々からも(たまたま)冷たくされ、(たまたま)仕事というプライドも崩され、何の望みもない、閉塞感だけがある状態になれば、きっと同じような気持ちになる。あとはタイミングとかバイオリズムとかそういうものがルーレットのように回ってビンゴしちゃうかどうかだ。しかも犯人は自分と同い年である。

そんなわけで事件にとても親近感を持ってしまう。初めは1つめの側面だけが自分を不安にしているのだと思った。しかしネット界隈の興味深い話を読んだり、何とかして異常というレッテルを貼ろうとしているワイドショーを眺めたりしているうちに、2つめの側面が見えてきた。


何となく、小説「罪と罰」を思い出す。