シリコンバレー精神とプログラマという仕事

京都へ行ってきた。
出張とはいえ、一件のミーティングのために往復正味10時間をかけて京都まで行くと、さすがに疲れる。まあ、面白い出来事はたくさんあったので悪くはなかった。

新幹線に乗るという機会はそれほどないのだが、久しぶりに乗ったのでついつい読書などしてみた。ここ数ヶ月、技術系の雑誌や資料以外はほとんどまともに読書していないだけに、新鮮。京都駅の本屋にまさか梅田望夫シリコンバレー精神」が置いてあるとは思わなかったので、見つけた瞬間買いに走った。

内容は、まあまあ。まあまあというととても偉そうだ。最近の自分はとても偉そうだ。初対面の人からは年相応に見られていないらしい。そういう話を他人伝いで聞くと、ますます偉そうになるからやめてほしい。会社が小さいということもあるし、スゴイ人が回りに少ないので井の中の蛙になっているのだと思うが、自覚症状はあってもショッキングな出来事がないとなかなかこの習性は直らない。

何の話だっけ。シリコンバレーにはいつか行きたいと思う。スタンフォードバークレーにいった安井さん、元気にしていますか??という気持ちにさせるという意味では、梅田さんの文章はとても元気だ。だが言い切りすぎて、すこし胡散臭い。「Googleは特異だ」と言い切ってしまえばGoogleについてよく知らない自分などにとっては「Googleは特異な会社なんだろう」と信じてしまうが、それはあまり論理的ではない気がする。そういう意味で、Web進化論もそうだけど、娯楽として楽しんで読んだ。

プログラミングという仕事は、エンジニアリングとアートのちょうど間にあると思う。職業としてのプログラマーは、科学者と技術者と芸術家と職人が合わさったような感じかな。

とは、今をときめくLinux界における仏陀、リーナス君の言葉だが、本当にその通りだと思った。今後の座右の銘、家訓、語録、さらには自分が死ぬときのダイイングメッセージにしようかと思った。思って赤ペンで線を引いてしまった。普段そんなことしないのに、文庫本に線を引かせたのも、また梅田氏の本が娯楽的だからかもしれない。

プログラミングは楽しい。ロジックと感性との境界を行ったりきたりしながら、ソースコードに書かれた真意を汲み取る。文学でもあり、同時に音楽だ。言語(ここでいう言語とは、日本語とか英語とかのことだ)によるまどろっこしい意思伝達ではなく、ソースコードという無駄をそぎ落とした媒体によってそこに意図された情報を知る。キューバ音楽でボンゴがリズムを変えたとたんにピアノが変調するのと同じように、そこには「あ・うん」が存在する。

もちろんそれだけではない。あり得ないプログラムサイズであり得ないスピードの処理をあり得ない美しさで実現する。見ているものに鳥肌を立たせるようなメガデモゲームキューブLinuxを乗せちゃう奴、なんというか、海類王みたいなのがひしめいている世界でもある。

先日JSSのトップがITpro:アクセスエラーを書いていた。確かに日本のベンダーはひどい。だが、コストも品質も納期も守れないプロジェクトが生まれてしまう本当の原因は、要求定義でも日本的企業風土でもなく、単純にヘボいプログラマしかいないことだと思う。Linuxが成功してMozillaが失敗したのはなぜか、と「シリコンバレー精神」でも問われているが、それは、Linuxが優れたプログラムでMozillaは優れていなかったからだと思う。プログラムには良いプログラムとへぼいプログラムしかない。それで全てが決まる。Mozillaのプログラムは確かに地に足がついていたかもしれないが、アートには欠けた。Linuxにはそれがあった。それだけのことだと思う。

「エンジニアのための転職サイト」という名前でプログラムを書く仕事の募集が山ほど掲載されているが、プログラマをエンジニアとしか見ず、システム構築を土木工事と勘違いしてはいけない。プログラマは確かにエンジニアだが、同時に職人でありアーティストだ。

そういう仕事なので楽しんでやってます。