友よ、また会おう。

六本木アルフィー

アドレナリン中毒の日々が続く。
アドレナリン中毒とは、思考と試行の繰り返しによって生み出される興奮状態が続いた結果、脳内血管が膨張して脳圧を上げ、食道やリンパなどその他の体内器官を異常にする状態のことである。と今俺が定義した。この定義が正確かどうかはわからないが、今ずっとこういう状態にいる。興奮状態も時間や空間や、使う体の部位が異なればそれがメリハリとなり体にいい影響を与えるが、メリハリのない興奮状態はもはや吸いすぎたハッパと同じである。

そうして気づくと新年も20日を数え、新年ボケがとうとう新年ボケではなくなって新しい場所に向かう友達がいる。大学一年、初めて会ったときからの衝撃は今でも変わらない。そして奴と俺の距離も変わらない。むしろ遠のいている気さえする。ギラギラとした危機感、それは地球の反対側にいてもひしひしと感じる特有のオーラである。俺にプログラムを教えた奇才にも追いつかない。むしろプログラムにおいてはどんどん置いていかれる。ところがぬるま湯のような環境に甘えきっていてまわりがちやほやするのをいい気になっている。寝坊もよくするようになった。このまま惰性に任せるわけにはいかない。忙殺されようとも、目の前の仕事を片付けることに99%の意識を使おうとも、残りの1%で人生の残りをイメージしなければならない。

人は死ぬときに自分で死を選ぶものだと思う。もちろん交通事故や絞首刑のような物理的に生命が分断されるようなケースは別だ。だが、ガンになって最後の一滴の生命の水が身体から離れようとしてるとき、それを許すか許さないかは自分の意識なのだと思う。母親の最期を見てから、ずっとそう考えている。肉が落ち、水分が抜けきった舌が小さく動き、最後の何かを伝えようと必死に口を動かしていた母は、やがて安らかに眠った。それは、最期を自ら選択したのだと思う。

ボリビアの山奥で寒さに震え眠ることさえ恐ろしかったとき、アルジェリアとモロッコの国境で野良犬と井戸の落とし穴におびえながら強盗に道案内をしてもらったとき、生きるためにはどうしたらいいかを必死で考えなければならなかった。ここで死んではいけないと思った。追い詰められた人間の行動は二つだ。逃げて逃げて、状況を悪くしないように立ち回るか、向かっていって状況を変えるかだ。そして俺は常に後者を選ぶ。だから、アドレナリン中毒で死なないためには仕事を終わらせて生き残らなければならない。仕事を終わらせて次を考えなければならない。仕事から逃げることはない。

そういったことを考えさせる機会は、卒業してからそう何度もない。友よまた会おう。